動く絵と石組み

最近のこと。
須磨に打ち合わせにいった帰り、兵庫県立美術館カンディンスキー青騎士展というのをやっていたので、別に絵に詳しい訳でもないが、有名な人なので見て行くかという気分になって立ち寄った。
有名なカンディンスキーさんとその仲間達の絵の展示なのだが、お、いい絵だな、と思う絵がことごとくカンディンスキーさんの絵ではないのに我ながら苦笑してしまう。カンディンスキーさんは何か、くそ真面目な感じがしていけない。
写真みてしまったせいもあるけど。何か堅苦しそうだ。勝手なこといってますが。。
絵は絵であればいいので、その人の絵のテーマとか小難しい理屈など感じられたら逆にイヤなのだ。

歴史の評価は当たり前のことだが個人の好みなど関係がない。ミュンターさんやマルクさん、クレーさんは好きだった。どうしても好みというか、趣味的にしかみない。一般人なのでそれでよいのである。モネは言うほど、心が動かないが、ゴッホは昔見てやっぱり感動した。絵を見て感動することはなかなか少ないけれど。

星野富弘さんの植物の絵はすごくきれいなのじゃないだろうか。実際にみたことはないが。また是非再見したい絵は数年前京都で見た長谷川等伯の波の絵かもしれない。

個人的なことだけれど、あの絵を見て、石組みの本質みたいなものに考えが及んだ。全体に等伯さんの絵は、植物にしろ風景にしろ、絵という二次元に収まりきらないものが漂っていて、特に波の絵は、リアルに波が割れている姿を見ている気がした。こちらの目があちらの絵の世界にいってしまって、普通の絵画を見ているときのように外から画面を見ている感じではなかった。
ただの画面としてとらえると、まったく写実的でもなく、バランスも良くないのだけれど、波は割れている。動いている。これが本当のリアリティだと思った。それは言うなら、夢に似ている。

これは石組みを見ていて「動く!」と思うあの時の感覚と同じであることに、それからしばらくして気づいたのだった。