殻のない種

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橋本雅也さんという彫刻家がいます。

雪山に猟師とともに入り、解体まで手伝った鹿の角や骨から花を彫りだしています。
自分は実際には作品を見た事はなく、作品集を見ただけなのですが、写真からでも一つ一つの作品の姿に、ただ一つだけ、という気品、あるいは、辺りを払うような尊厳を感じます。

また、殺めた鹿の命、そこから得た素材と真剣に向き合った彫刻家の姿を感じます。

仕事で花はよく見ているのだけれど、今までの、花の見方を変えてしまうような力を持った姿です。
下記のリンクに作品の写真が掲載されています。
http://lgsac.exblog.jp/16152396/

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自分の尊敬する芸術家の展示を手伝った事がありました。その方は世界各地の海辺で、日の出の写真をピンホールカメラで撮り、その浜辺に落ちていたゴミとともに展示する活動を続けています。
インスタレーションとしてゴミを並べる手伝いをしていた時、こういわれました。
「おいかまちゃん。ゴミが一番大事なんだ」「このゴミきれいだろ?」

それまで、正直、意味もわからず、並べるのを手伝っていたゴミが、その時、本当に少しきれいに思えました。
見知らぬ浜に流れ着いたゴミも良く見てみると、元々は人間の生み出したものであり、様々なかたち、色彩や歴史を持っている、そう思いながら見てみると不思議と親しく、大事な存在である気がしました。

一時期、ゴミを集めるゴミ屋敷の人をワイドショーがおもしろおかしく扱っていたことを思い出します。あのゴミを集めざるを得ないかのような人たちも、ゴミに対するそういった感性を持ってしまったのかも知れない、、

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芸術という言葉を考える時に思い浮かぶ文章があります。
保坂和志『アウトブリード』所収「行為へと駆り立てるもの」から

『獄中闘争は他の闘争とはまったく違う闘争の形態をとる。闘争といってもそれは抵抗でしかありえないが、ともかく、その闘争をするのはあくまで一人一人であって、デモのように集団となることはできない。闘争する一人のできることなどたかが知れているけど、自分と同じ闘争をしている人間が同時多発的にいれば自分の行為は力となる---と想像することでしか闘争は始められないし、持続させることもできない。しかし、自分が闘争する同時刻に<同志>の闘争する姿をみることはできない。』
『行為の理念は個々の中にしかなく、伝達経路もなく、<同志>との目にみえる交渉もない。しかし自分が行為することと同じことを自分の見えないところで誰かが行為している(あるいは理解する)はずだという、それは芸術のことで、芸術とは結局のところそうでしかない。』

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芸術家は、孤独な自分と向き合う時間の中から、一般常識的には理解されない、世界の秘密を開く人たちなのだと思う。