森山大道

森山大道の写真展を見に国立国際美術館へ。

森山さん、全体というのがある前提の上で、細部を撮っていると、ドキュメンタリーで言う。
それは何故か。

記憶というのは、記憶として語られる、その瞬間に、わかりやすく全体を示していないと、相手に明確に伝わらないことがある。

例えば、昔住んでいた場所での、生活の記憶を伝えたいとき、「門から玄関には石畳があって、それは10センチぐらいの間隔でしかれていて、石の材質は花崗岩で、とても固くて表面にはノミの後があるから、ちょっと加工して敷いたことがわかって、、」などと際限なく細部を語っても、その人のその家での体験や質については、もう少し全体として共有されうるようなイメージを語らないと伝わりにくい。
例えば、「俺んちは、北杜夫の楡家の人々に出てくるようなうちだったよ」と言うだけで、それを共有する人たちには簡単に伝わることがある。記憶を定型的な物語として伝えるのは対話の中でとても有効な方法だ。でも、それは本当だろうか。

写真にも、物語としての写真と、ドキュメンタリーとしての写真があり、森山さんの場合はきっと際限のない細部を淡々と記録することを考えている。既に読まれ共有された物語ではなく、今現在語られつつある物語を記録していると言えばいいだろうか。

その姿勢に共感する。うまく言えないが。
人に何かを伝えるということ、イメージを十全に共有することは、そんなに簡単に済むことではないと考えるからかもしれない。
庭を作る時にも、全体のイメージはあるけれど、空間、まさにその場に立った時の質を決定しているのが細かいデザインの集まりであることを知っているからかもしれない。

森山さんの写真はそういう意味で波長が長い。森山さんの小刻みに動く視線に付いていく時、その全体ははっきりとは見えない。
そういう作品との付き合いは、現代人のペースからはずれているように感じているのだが、これだけ支持されているのが少し不思議で嬉しい。