たんぽぽ

数日前に、糸井重里さんが紹介していたほぼ日の記事の「たんぽぽ」という文章。
http://www.1101.com/nagata/
初めて保育園に通う男の子とその両親の気持ちの動きが、その場で同じ春の空気を吸っている気がするように伝わってくる文章。庭を作っている自分は、男の子が目を取られるタンポポの力について考える。

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仲間のお手伝いで京都へ。

休憩時、震災があってから、子どものことについてたびたび考えると。それから、子どもにとっての庭の話。踏まれても生える草とか、雑草を使うこと。蜂の巣を庭に作ること。

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そういえば、師匠が最近、何紙かの媒体に発表した庭を思い出す。その庭のほとんどが、雑草同然の草花が生い茂る庭。農を取り巻く里に対する師の心象なのかと思う。また、どちらも施主さんが思い思いに自由に育てている庭でもある。最大に良い意味で、ただの庭だな、と思う。

その内の一つを作っている時、お施主さんの息子さんで植物や昆虫に詳しい男の子が「お父さん達なんで庭なんか作るん?!自然なのが一番や!!」という声が聞こえたことも思い出す。庭は基本的に大人のためのものということに気が付く。

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たんぽぽを取ろうとした男の子のその感性が、庭を持ちたいと思う大人の心に繋がっているはずなのだが、現実に形を取る庭は一輪のたんぽぽの素朴さとはかけ離れて行く。というよりたんぽぽに目を奪われ、手を伸ばそうとする運動と、庭を眺める、視覚の快楽に偏った行為の違いか。大人になるというのは、視覚に感覚が偏重していくことなのかもしれない。。たんぽぽ自体の力と、視覚を含む感覚と運動、子どもの為の庭は、きっとその辺にヒントがある、のか。もう少し考えればわかりそう。運動。自由な運動。眠いので今日はここまで。