音の静寂 静寂の音

今日は暑かった。明日は休みなのでシャワーでなくお風呂に入ろう。なんでか。
讃岐うどんを作って食べた。
おいしいおいしい。

最近ちっと高橋悠治さんの本を読み返している。

音の静寂 静寂の音

音の静寂 静寂の音

一部分だけ引用してもしょうがないけれど、ダライラマとの対話のあとに思われたこと。音楽によって心が逸らされる、眠らされるということ。音=心であって、音楽=心ではないっつーことか。演奏家は音の影として音楽があると考える事で、音自体へアプローチするのか。庭で言えば一本の樹に気づくための庭か。それほど簡単なことではないか。ともあれ良い文章がいっぱいです。


以下引用 『音の静寂 静寂の音』より


音楽を心の寺とすることが出来るか
智慧によって静まった心に
音楽は顕われるだろうか
どこからともなく音は顕われ
どこともしれず消えてゆく
よく気をつけて音をよびさます手は繊細になる
それもつかのま
つくりだされた音楽そのもののリズムにより
メロディーにより
技術の洗練により
心は眠りこみ
あるいは逸らされる

音楽はやはり文化を越えない
音楽とは世間にとどまり
人びとのなかでだけ意味を持つもの

だが一方で音楽自体が
消えてゆく一つの音に気づくための装置
とも言える

音楽は音の影にすぎない。