庭の旅 

今日も時間があるので本を読んどります。
最近の読書はなぜか色々自分に返ってくるものが多いです。学生時代みたいな感じです。
これ書いてたら3時間ぐらい経ってて料理出来なかった、、
明日弁当がない、、、!
寝ますわ。

庭の旅

庭の旅

園都市計画家の白井隆さんの著作。日本や世界の庭を実際に巡り、見聞きし感じ、考えたことをまとめたエッセイ集。
庭というものを、和風とか洋風とか、形式にとらわれず、好ましい空間はどうやって出来るのか?ということが考えられており、実際に手を動かして庭を作る身としても示唆が多い。

白井さんはどうやらデザイナーであって庭を自分では作らないらしいので、どのような表現を庭でしているのかがとても気になってしまうが、この本では触れられていない。

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特に印象的であったところ。
自分自身もかなり疑問に思う近世の大名庭園の名残が残る日本庭園について語っているところ。
最近の庭の流れも全くこの延長線上にある。特権階級のための庭へのある意味、批判として、日本的な形を取っているのが雑木の庭であり、洋風であればガーデニングなのだと思う。

僕たちが仕事で出会う施主の約半数は、開口一番、「和風の庭はイヤだ」と断言する。
風情の無い決まりきった灯籠と水鉢を押し付けて、「これが庭だ」という造園屋の仕事が嫌なのだという。その一方では、一部建設業者が、大手メーカーによって大量生産された材料と意匠を洋風と称して、無造作に押し付けて、お茶を濁してきた。どちらにしても、作り手として、不誠実であった。
こつこつと働くしょみんのためにこそ、現代の庭は作られるべきなのに、日本近代庭園の歴史において、そのような庭文化が台頭することはなかった。庭の作り手の多くは、近世の日本庭園に軸足をおいて、特権階級からの注文を夢見ていた。
しかし、90年代初頭にバブル経済を経過して、本当の生活の豊かさを探し始めた人々は、「ガーデニング」という新しいメディアに、圧倒的な支持を表明した。身の回りの生活文化の貧困に対する異議申し立てが、堰を切ったように溢れ出したのだ。
人々がガーデニングに突きつけてくる要求と期待は、自ずから、「園芸」や「造園」の範疇を逸脱し、いつしか生活文化全体に及んだ。毎日の食卓に、汚染されていない安全な食物を用意したい。
大都市の真ん中に住まいながら里山の豊かさにふれて、子ども達に自然の道理を教えたい。・・・(略)
要するに、「自然と人間の関係を再構築」し、細分化された専門的な知識と技術を消化し、庶民の生活のために再構成して演出することを、人々は、ガーデニングというメディアに期待しはじめたのである。

これを読み、自分の作った庭のことを考える。

自分が先日作った庭→[http://d.hatena.ne.jp/niwakama/20110228には改修前、元々灯籠があり、最初はいらないと思ったが残すことにし、残すことにしたのなら、レストランのショウ的な要素として、その形式をある意味強調するために水鉢も入れることにした。しかも、たまたまタダで手に入ったこともあった。
しかしやっぱり、ゴリゴリの日本庭園は嫌なので、流れを作って雑木を植えることで、文人の別荘風というか、自然も感じられる、少し柔らかなものにと思っていたが、常緑の木、観葉的なものだけを植栽してほしいということがあり、微妙にアジアンな何とも独特な庭になったのだった。「バリ風やな」「エンボカらしい庭」という評価ももらったりしたが。。

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自分にブレがあったことだけはわかる。反省しないといけない。
きっと、近世風の庭園でも、茶庭でも、雑木でも、ガーデニングでも、表面的に借りてきたような作り方でなければ、なにかが伝わるのだろうと思っている。つまり作る前の段階の「こうしたい」と思う強さなのかもしれない。

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後は里山の美しさを讃える気持ちが書かれている部分など。

「実はこの沢全体が庭なのだな」
と僕は思った。ほかにふさわしい言葉があるだろうか。例えば、都市に生まれ、都市生活しか知らない人間が、この沢、この里山が持つ豊かさをもう一度取り戻そうと夢を見るとき、その全体の計画を組み立てるために、思想も、技術も、美意識も、全てを兼ね備えた「方法」が必要になるだろう。「庭」、あるいは「庭園」ほかにふさわしい方法があるだろうか。

白井さんは里山を都市に再現したいということなのだろうか。それはどのような形をとるのだろうか、大変興味がわきます。

また色々考えたのでブログにも書きつつ庭で表現したいっす!雑木の庭とガーデニングの先にある庭。とかそういうものを全て包括していたかもしれない庭の本質とか、そんなことです!