引用from『逝きし世の面影』

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

第五章の「雑多と充溢」に書かれている職人の仕事について。江戸時代の、特に裕福な階級でもない、普通の人々の暮らしがそのまま美しかったことを示す資料の引用。こんな時代があって「金銭的に儲かろうが関係なく」本能的に美しいものを作る職人がいたのだという。

今、職人が作るものは、その手間の分だけ、大量生産品より割高になるから、そういう理由で様々な、こういう些細な美しいものは無くなって行く。あるいはそのようなものが手に入ったとしても、その物が浮いてしまうぐらい、他の取り巻くものが美しくなくなってしまっているかもしれない。

情報が発達しているから、材料や工法がプロでなくとも手に入る。センスがあれば、金銭を目的にしていない分だけ、良いものが作れる時代なのだと思う。その素人性が世間に受ければ、職人側の立場は危うくなる。
「素人でも作れるものを、ただ素人より素早く奇麗に作れる」存在になってしまうか、一目で職人の高い技術を示すための、分かりやすい派手なものづくりになってしまう傾向がある。
そもそもプロとは何を指すのか危うくなる時代で、生活の中で初めて生きてくるような地味な良い仕事は、様々な刺激に埋没して、顧みられなくなる。

そういう流れの中で、改めてこの本に書かれている職人のような、日常にとけ込む良い仕事を沢山していきたい。(沢山、ってところが重要かもしれぬ)
何でもないように見えて真似出来ないもの。何でも無いように見える、というのは受け手とのコミュニケーションが素直だということ。そういう庭は案外少ない。特に高度経済成長時代の庭におかしな例が多く見られるのは、この本の記述を痛切にする。

アンベールは「江戸の商人街の店頭に陳列された工芸品」には、「一貫した調子のあること」に気づいた。誰が何と言おうと、自分はそれを「よき趣味」と呼びたい、と彼は言う。「江戸の職人は真の芸術家である」。種子屋で売っている包みには、種子の名前とともにその植物の彩色画が描かれている。「これらの絵は何か日本の植物誌のような冊子から写し取られたかと思われるほどの小傑作である」。ところがそれは、畳の上に寝そべって筆を走らせている年端もいかぬ店員の作品なのだ。
アリス•ベーコンは言う。「日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的にも儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。、、、庶民が使う安物の陶器を扱っているお店に行くと、色、形、装飾には美の輝きがあります」。彼女は「ここ日本では、貧しい人の食卓でさえも最高級の優美さと繊細さがある」と感じた。
アーノルドは言う。「日本の最も貧しい家庭でさえ、醜いものは皆無だ。お櫃からかんざしに至るまで、すべての家庭用品や個人用品は多かれ少なかれ美しいし、うつりがよい。」
そしてヒュープナーが要約する。「この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも芸術の享受、趣味が下層階級にまで行き渡っているのだ。どんなにつつましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことが出来る。、、、ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ」